縁側と猫と、豊かな時間。

猫が教えてくれた、本当に豊かな家のこと。

建築士として多くの家をつくってきました。けれど、新しい図面に向かうたび、私の心に浮かぶのは決まって一つの風景です。遠い昔に暮らした日本家屋の、陽だまりの匂い。光と影が畳の上に描く静かな模様、そして、その光の真ん中でいつも丸くなっていた一匹の猫、ミーちゃん。

彼は言葉を持たない、私の最初の師匠でした。家とはただの箱ではない。住む人と共に歳をとり、思い出を吸い込んでいく生き物のような存在なのだと、その小さな体で静かに教えてくれたのです。

これは、私が建築士になるずっと前に始まった、「本当に豊かな家」をめぐる、私と猫のささやかな物語。そして、もしかしたら、あなたの心の奥にある懐かしい記憶の物語でもあるかもしれません。


1|縁側と、心地よい距離感

南向きの縁側は、子どもの頃の私の特等席でした。あなたにも、そんな「家の中のお気に入りの場所」があったのではないでしょうか。春は柔らかな日差しが畳の目を黄金色に染め、夏は庭の木々を揺らす風が雨上がりの土の匂いを運んでくる。彼はそこで、言葉ではなく、全身で季節の移ろいを感じていたのです。

ある昼下がり、丸くなって眠る彼の背中にそっと手を伸ばしたときのこと。ミーちゃんは小さな前足で、私の手を優しく、しかしはっきりと押し返しました。その光景を見ていた母が、くすっと笑って言った言葉を今も思い出します。「命にはね、それぞれの時間があるのよ。待ってあげるのも、優しさなの」

触れたい気持ちをぐっとこらえ、彼が自然に目を覚ますのを待つ時間。それもまた、温かい時間なのだと知りました。家とは、互いの聖域を尊重し、心地よい距離を保つ場所。見えない境界線があるからこそ、暮らしは優しく育まれる。家族が互いの気配を感じながら、それぞれの時間を大切にできるような「余白」こそが、家の豊かさなのだと、今も信じています。


2|小さな寝息が紡いだ、家族の時間

夏の昼下がり。遠くの蝉の声がふと途切れると、家の中には深い静けさが訪れます。その中で、かすかに聞こえてくる音がありました。ミーちゃんの「すー、すー…」という、規則正しく安心する寝息です。言葉を交わさなくても、ただ同じ空間にいるだけで心が満たされる。あなたにも、そんな経験はありませんか?

その穏やかなリズムに引き寄せられるように、誰からともなく家族が縁側に集まってきました。父は新聞をめくり、母は繕い物をし、祖母は冷たい麦茶を静かに飲んでいた。私は畳に大の字になって、天井の木目をぼんやりと眺めていました。

父が新聞をめくる乾いた音、遠くで鳴る風鈴の音。そのすべてが、ミーちゃんの寝息に溶け合っていくようでした。愛するものの気配に満たされた沈黙は、どんなおしゃべりよりも心を豊かにしてくれます。あの小さな寝息は、私たち家族をひとつにつなぐ、優しい合図だったのかもしれません。


3|家と庭をつなぐ、猫の道

子どもの私にとって、縁側から先は、もう別の世界でした。そこから先は「外」。靴を履かなければいけない、特別な場所。家の中と庭との間には、透明だけれど確かな境界線があったのです。

でも、ミーちゃんにとって、そんな境界線はあってないようなもの。私が畳の上で寝転がっていると、彼はよく部屋の奥から助走をつけて縁側を駆け抜け、縁台の端をポンと踏み切り、いとも簡単に庭の柿の木の幹にひらりと飛び移るのです。その身軽な後ろ姿を、私はいつも少し羨ましく見ていました。

「家の中と外が、もっと滑らかにつながっていたらいいのに」。あの時感じた純粋な憧れは、今も私の心の深いところにあります。窓を開ければ緑の匂いが飛び込んでくるような、そんな暮らしに誰もが心を惹かれるのは、きっとこの感覚を心のどこかで覚えているからなのでしょう。


4|柱の傷は、家族の勲章

あなたの育った家にも、ありませんでしたか? 柱に残った背比べの線や、壁の小さな落書き。我が家の柱には、私の背比べの線と、ミーちゃんの爪跡が並んでいました。父が最初は「柱が傷む」と苦い顔をしていた爪跡も、いつしか「元気な証拠だ」と笑って眺めるように。背比べの日に、少しでも高く見せようと背伸びした私に、母が「大きくなったね」と嬉そうに線を引いてくれたこと。記憶が、印のひとつひとつに宿っていました。

それは家の欠点や汚れではなく、私たちがそこで確かに生きた証。ピカピカの新品もいいけれど、傷つき、古びていくことで、かけがえのない愛おしさが増していく。私はそれを「経年美化」と呼んでいます。あの柱は、家族の時間を吸い込んで、ただの木ではなく、私たちの物語そのものになっていったのです。


5|風になった、夏の日の君

大人への階段を上り始めた、忘れられない夏。あれほど軽やかだったミーちゃんも、いつしか縁側で眠る時間が長くなり、私の膝の上で丸くなることを好むようになりました。そして、蝉時雨が降り注ぐ昼下がり、彼はいつもの縁側の風の通る場所で、眠るように静かに旅立ちました。

母は涙をこらえ、「あの子の時間を、最後まで見守ってあげられたね」とだけ言いました。幼い日に聞いた「命には時間がある」という言葉が、まったく違う重みを持って胸に響きました。悲しいけれど、不思議と穏やかなお別れでした。庭の柿の木の下に小さな体を埋めながら、私は、彼がこの家の風景そのものになったような気がしました。体はなくなっても、思い出は家のなかに溶け込んでいく。縁側を風が吹き抜けるたび、そこに彼の気配を感じるような気がしたのです。


6|心に建つ、壊れない家

やがて私は建築士になる夢を胸に、生まれ育った家を出ました。都会の暮らしに慣れた頃、ふと懐かしくなって帰った家は、時間が止まったかのようでした。柱の傷はあの頃のままで、玄関を開ければ畳と木の匂いがする。ただ、縁側にミーちゃんの姿だけがありませんでした。さらに時が巡り、両親も歳を重ね、住み慣れた家は少しずつ住みにくくなっていきました。建築士として、この家の限界は痛いほどわかります。だからこそ、今度は私が両親のために新しい家を設計しようと決めたのです。思い出の詰まった我が家を建て替える。その決断は、胸が張り裂けるほど辛いものでした。

解体の日、すべてが更地になった場所に立ち、静かに目を閉じたとき、不思議なことが起こりました。目を閉じれば、そこにいつもの縁側があり、ミーちゃんが陽だまりの中で気持ちよさそうに喉を鳴らしているのです。家という「形」はなくなっても、家がくれた温かい記憶は、少しも色褪せていませんでした。

そして今、かつて我が家があったその場所には、新しい家が建っています。縁側を抜ける風の心地よさ、陽だまりの温もり、木の香り。あの古い家が私にくれた宝物は、新しい家に静かに受け継がれています。この縁側で誰かがふと目を閉じたら、もしかすると、陽だまりの中に猫の姿が見えるかもしれません。

家は、記憶の器です。あなたの心の中にも、きっと、決して壊れることのない、大切な「家」が建っているはずです。そんな、温かい記憶と共にあり続ける場所を、これからも大切にしていきたいと、心から思うのです。

建築工房『akitsu・秋津』

美は、日々の営みの中に。

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