美しき建具、豊かなる時間。

建具は、空間の呼吸。

一枚の扉に手をかける。そのとき私たちは、ただ部屋を移動しているだけなのでしょうか。障子を通して滲(にじ)む柔らかな光に、心の奥で何を感じているのでしょうか。

ドアや窓、障子やふすま。それらは単なる「建築の部品」というよりも、建物の「皮膚」に近いものと言えます。空間の気配を整え、私たちの暮らしに静かなリズムを刻み、心のありようにまでそっと触れてくる。

当たり前すぎて見過ごしていたその存在に、少しだけ心を寄せてみたいと思います。それはきっと、私たちがどこで安らぎ、何を大切に生きていきたいかを見つめる時間になるはずです。


1|「隔てる」のではなく「気配」をつなぐ

壁が空間を「断絶」させるものだとしたら、建具は空間を「予感」させるものではないでしょうか。

特に日本の襖(ふすま)や障子が持つ役割は、空間を完全に分断する壁や扉とは少し異なります。向こう側の気配や光をほのかに伝えながら、空間と空間の間にあわい境界線――「間(ま)」を生み出します。

襖を少し開けておけば、風が通り抜け、離れた部屋にいる家族の衣擦れの音や笑い声が届く。閉ざせば、ひとりの静寂が守られる。けれどその仕切りは、たかだか紙一枚の頼りないもの。「いつでもつながれるけれど、今はひとりでいる」。そんな、孤立とは違う「優しい距離感」を作ってくれるのです。

強い日差しを和紙の繊維で濾過(ろか)し、柔らかな陰影に変える障子もまた、光と影の緩衝地帯です。建具がつくるその曖昧さが、私たちの心に「余白」を与えてくれているのです。


2|記憶は、その手触りに宿る

家の中で、私たちがもっとも頻繁に「手で触れる」場所。それが建具です。ドアノブの真鍮が手のひらに伝える冷たさと丸み、引き戸の木の桟(さん)が指に馴染む感覚、障子を滑らせるときのサラサラという乾いた音。

そうした指先の感覚は、意識せずとも身体の奥底に積み重なっていきます。

使い込まれた木製のドアノブは、家族が何千回、何万回と触れることで、新品にはない飴色の艶(つや)を帯びていきます。「手澤(しゅたく)」という言葉がありますが、まさに手が潤いを与えた証です。柱に残る背比べの傷跡、少し重たくなった引き戸の軋み。それらは劣化ではなく、そこで過ごした時間の豊かさそのものです。

建具は、物言わぬ同居人。ふと触れた瞬間の手触りに、幼い頃の記憶や、かつての家族の温もりが蘇る。そうやって建物そのものが、私たちの記憶のアルバムになっていくのです。


3|風景を借り、光と遊ぶ

窓辺に立つとき、私たちは「外」を見ているようで、実は「内なる心」を見ていることがあります。

窓は、広大な世界の中から、いちばん美しい空や木々を切り取り、額縁のように日常へ差し出してくれます。どの景色を、どの高さで、どれくらいの大きさで切り取るか。窓の配置や建具のデザインひとつで、部屋の空気感は一変します。

古くから日本にある「借景」という考え方は、自然を所有するのではなく、その美しさを慎ましく「借りる」という心の作法でした。また、縁側のように内でも外でもない曖昧な場所で、雨音を聞き、月明かりを浴びる時間。

建具が開かれるとき、風が入り、鳥の声が届く。自然をコントロールして遮断するのではなく、敬意を持って招き入れる。そんなおおらかな自然との付き合い方を、建具は私たちに教えてくれているのです。


4|便利さの先にある、触れる喜び

技術は日々進化し、触れずとも開くドアや、自動で調光する窓など、「スマート」な建具が増えてきました。暮らしが便利になることは、とても素晴らしいことです。

ただ、便利さを享受する一方で、私たちは「自らの手で触れる」という感覚を、少しずつ手放しているのかもしれません。重みを感じながらレバーを押し下げる。ガチャン、と鍵を回す。その一連の動作は、家の外と中、オンとオフを切り替える、小さな儀式のようなものでした。

これからの時代、本当に贅沢なのは、ただ自動化することだけではないような気がします。たとえば、触れた瞬間の温度が優しい素材や、開閉の所作そのものが美しくなるようなデザイン。テクノロジーと、私たちが本来持っている「触覚」や「身体感覚」が、優しく共存できる未来。そんな建具のあり方が、これからの暮らしをより豊かにしていくことでしょう。


5|静かな対話

建具は、暮らしの節目にいつも存在しています。「行ってきます」と背中を押してくれる扉。「ただいま」と迎え入れてくれる明かり取りの窓。

ふとした瞬間、ご自宅の建具を眺めてみてください。そこには、あなたが選び、日々触れ、共に歳月を重ねてきた「時間」が映し出されているはずです。

何かを変える必要も、急いで手入れをする必要もありません。ただ、次にそのノブに触れるとき、指先から伝わる感触や音に、ほんの少し心を澄ませてみる。建具と静かに対話すること。それはきっと、日々の忙しさの中で忘れかけていた、自分自身の「心地よさ」を取り戻す、優しいきっかけになるはずです。

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